歴史・由緒

由緒

「伊香」と書いて古くは「いかご」あるいは「いかぐ」と発音しました。ですから万葉集ではこの背後の山すなわち賤ケ岳(しずがたけ)連山を伊香山と書いて、いかご山と読ませています。そしてその名は『古事記』に出てくる火の神「迦具土神」(かぐつちのかみ)の徳を受けられたところからきているようで、そのことはこの社のすぐ後ろの山の小字名を「かぐ山」とよび、また摂社に有る「意太神社」の御祭神が「迦具土神」となっていることからも証明されます。それで昔からこの神社は「火伏せの神」「防火の神」としての信者が大変多く、特に火をよく使う商売の人々の間にその霊験は大変あらたかといわれています。

 さて伊香具神社の御祭神「伊香津臣命」という神様は、神武天皇に仕えて総理大臣の役を果たされた天児屋根命第七代目の子孫にあたられる位の高い方で後の中臣氏(藤原鎌足らの氏族)らの祖先でもある方です。

 九世紀の後半当神社の神官で伊香津臣命から第十六代目にあたる伊香厚行という人は、中央政府でも活躍され菅原道真公との親交が有りました。菅原道真公は幼小の時この北方の余呉にある菅山寺という寺で修業されたこともあって、この伊香具神社を厚く信仰され自筆の法華経、金光明経を奉納されました。また宇多天皇に申し上げて「正一位勲一等大社大名神」の額を賜りました。そして当時制定された「延喜式」においては大社大名神という高い格を与えられておりました。この「延喜式」に記載された神社を「延喜式内社」とよんで古くから信仰の厚かった由緒のある神社とみなされていますが、近江一五五座のうち伊香郡(現在は長浜市の一部)は全国的にみても特に集中して多く当伊香具神社の大社一の他小社四十五座を数えています。

 後に足利尊氏が天下を取った時には特に二百石の領地を賜り毎年正月、五月、九月の十八日に国内の無事を祈るための祈祷祭を依頼されました。以後祭儀は今も絶えることなく続けられています。

歴史

上古、当地が未開の湖沼地であった頃祭神が来て開拓し、その後子孫を守護するために鎮座したといい(『近江興地志略』)、天武天皇の白鳳10年以前に子孫である伊香宿祢豊厚が社殿を建立したという(『神社由緒記』)。

貞観元年(859年)に従五位上勲八等から従四位下に昇叙され、同8年には従四位上に昇り、延喜の制で名神大社に列した。社伝によれば、寛平7年(895年)に菅原道真が法華経や金光明経を手写して納め、同時に「正一位勳一等大社大明神金剛覚印菩薩」の勅額が下賜されたという。

その後足利尊氏が200石の社領を寄せて正月、5月、9月の各18日に祈祷を行うよう依頼し、浅井氏も庇護を加えたが、賤ケ岳の戦いの兵火に罹って社殿、古記録を焼失、社領も没収された。

明治8年(1875年)郷社に列し、同32年県社に昇格、同40年には
神撰幣帛料供進神社に指定された。